みどーりの心地日記

陰極まりて陽に転ずるさ。みどーりの心地を作ろう

「あなたは変わり者なのだから…」

 

「あなたは変わり者なのだから

周りに合わせることは全部あきらめていいんだ。

それを、いつも忘れてはいけないよ」

 

「そのためのツボを押すよ」

 

と、頭にグリグリと愛情深く、手を置かれる。

 

そんなゆめを見た。

 

その人は日本人なら誰もが知ってるスターだったけど、

変わり者スターでもあった。

 

わたしはその人がYouTubeで流れてくるたび、

嬉しかった。

その人の話すことや、その姿に、ツボっていた。

 

そして、

ゆめの中で、なんとわたしはマスクをつけていて

「そうだ、この人に顔をみせなくちゃ」と想っても

既に着けている状態で出遭ってしまったから

「今さら外すタイミングがない」とあきらめの心地を味わっていた。

 

ゆめの中で、この仮想のわたしを味わうとともに

周りのマスクを着けている人たちのなかにもこの感覚があることを感じた。

 

(こういう普段の自分という役を超越した、感覚が得られるから、「ゆめ」というのは侮れない。)

 

現実のわたしは寒くても何があっても基本マスクを着けない。

でも、仮想のわたしが着けていたマスクを、普段のわたしもしっかり身に着けていた感覚があった。

 

きっとまだ、わたしも心にマスクを着けているのだ。

 

笑いたくても、笑わないようにまだ生きてる。

怒りたくても、怒らないようにまだ生きてる。

 

人と一緒にいたくても、まだ孤独を気取ってる。

わたしひとりのための心地を作りたくても、まだまだ外に合わせて生きている。

 

周りの人のマスクした姿が哀しいのは、自分自身がまだ心のマスクを外せていないから。

 

どうしても、共に外したシーンを作りたいというのなら、お茶を淹れて一緒に飲むことだってできるのだ。

(それでも、あごにするかもだけどお顔は見られる)

 

 

変わり者のわたしが、心のマスクを外して

全顔で息をできるように。

変わり者なのだから、周りに合わせるのはすっかりあきらめて。

さあ、今日は今日のぶんの みどーりの心地を作ろう。

f:id:midorinokokochi:20250118145743j:image

自分は自分のことが大好きだから…

 

自分は自分のことが大好きだから…

自分をうまく出せないとこは嫌い。

 

自分は自分のことが大好きだから…

だいじな自分に傷ついてほしくないから、

自分を出そうとするのがこわい。

 

今日2024年11月24日(日)生まれて初めて、マルシェにでた。(第4回チルチヨマルシェ)

 

わたしは、可愛ゆい物やさんということで

額入りの手描き原画(すべて、愛するぬいぐるみ、こねこのみーこちゃんについて)と、オリジナルグッズ(シール、メモ帳、スケッチブック、ポチ袋)を持っていった。

 

 

それで、作品・商品についてお客さんに話すにあたってはどうしても作った張本人、自分の話をしないといけない。

 

自分の話をするためには順番と時間制限があった高校〜大学時代。

それにより、自分の話をスムーズに話さなくては…とか、他の人(相手)の時間がなくならないように話しすぎないようにしなくては…と、

自らの言葉を紡いでいる最中にまで考える癖がついてしまった。これは結構しんどいもの。

 

今回、「可愛ゆい物やさん」で行こう!と決めたのは…

・通信制高校時代にスクーリング(授業日)のない平日にアルバイトしていた某キャラクターのテーマパークのお土産ショップ。そこで可愛ゆい物に囲まれまくっていたこと

・友人から「持っている物すべてが可愛いじゃん!」と驚かれたことをムフフと大事に宝物にしていること

・可愛ゆい物を身につけているときに見知らぬ人から遠慮がちに「それはどちらかで買えるものなのですか」と訊かれることを大切に宝物にしていること

・「みど(筆者)は絵が描けるからいいじゃん✨」と言われたり、描いてほしいとお願いされることがあっても、自分は絵を描くことには死ぬほどまでの興味はなく「自分は単なる可愛ゆい物好きだ」と想っていること

 

…などなどがある。

 

「それで、作品・商品についてお客さんに話すにあたってはどうしても作った張本人、自分の話をしないといけない。」

 

そう、可愛ゆい物をアルバイト販売員として売っていたときは、キャラクターの話や、知識の話にフォーカスしていれば済んでいたし、せいぜい「わたしの好きなキャラは〇〇です」くらいの自己主張で済んだ。

でも、わたしは今、自分で始めた可愛ゆい物やさんで、自分が想う可愛ゆいものを作って並べて、値段決めて、値シール貼って、

なんでそうしたかったのか、なんでこうなったのか、可愛ゆい物について話そうとするとどうしても自分のことを話さないといけないから

キャラクターテーマパークのお土産ショップアルバイト販売員とは大違いだなと感じた。

 

自分は自分のことが大好きだから…

自分をうまく出せないとこは嫌い。

 

自分は自分のことが大好きだから…

だいじな自分に傷ついてほしくないから、

自分を出そうとするのがこわい。

 

今日、2024年11月24日(日)生まれて初めてマルシェにでて、自分のことを出すのは恥ずかしいなっ!と想った。わたしは精神的な胎児で、お腹のなかに引き篭もってた、まだ生まれてない赤ちゃんなのかよと想った。

それはさぁ、見ようによっては神秘的で綺麗だよね。

でも、わたしは、なんで生まれてきたかったのか? その理由のひとつはさ、自分を出すため!

 

自分の話をするためには順番と時間制限があった高校〜大学時代。

 

高校時代、宗教のコミュニティの合唱団に入っていて、そこで人の心を動かすための話し方を学んだ気でいた。

通信制高校時代、接客の研修を受けて、ゲストの目線に立った人としての振る舞いを身につけた気でいた。

 

だけど、宗教のコミュニティっていう場所も、ゲストに楽しんで帰ってもらうっていう場所も、わたしの生まれてきたかったゆめには届かなかったみたい。

 

でも、わたしは、なんで生まれてきたかったのか? その理由のひとつはさ、自分を出すため!  

 

 

自分は自分のことが大好きだから…

自分をうまく出せないとこは嫌い。

 

自分は自分のことが大好きだから…

だいじな自分に傷ついてほしくないから、

自分を出そうとするのがこわい。

 

こわいよ。こわいけど。今日ひとつ自分を出しちゃったからさ。

大好きよ。大好きだよ自分。せかいでいちばん大切だよ。自分。

そんな自分がどこへ行っても、へそ天で、心の中身(=たましぃ)どーりの心地で、たましぃ等身大で生きられるようにしていくからさ。

安心してほしい。

そしていつか、ぜんぶが繋がる日がくることをビジョってる。(ビジョンを想い浮かべてる)

 

写真は本日持っていった。額入り原画の絵です。生まれて初めて、アナログの絵がお嫁に行きました。

タイトルは「朝洗顔」。目覚めの感じ。

或るバイトの話

或るバイトの面接を受けてきました。

面接官の振る舞いから手強い求人なのだろうかと感じて、受かったという手応えがありません。

 

でも、いーんです。

 

実は、この或るバイト面接は全く同じセクションを先月末にも受けていて、今月あたま、脅威のスピードで2回目として受けに行ったのです。

 

姉から、何度か受けて満を辞して働き始めた人は大勢いるという話を聴いたことがあったので。

やっぱり、前回の面接で受かりそうな雰囲気があったし、なによりここで働いてみたいなと想って。

そしたら、面接官の方が違ったので、「また受けにきた」という気まずさが少なくてよかったです。が、面接官(社員の方)の方が違うと訊かれることも、やっぱり違って、社員の方お一人おひとりの信念もきっと違うのです。おんなじ会社なのにこんなに違うんだーと驚きです。(いい・悪いの話ではないです)

めーちゃ勉強になりました。

 

何かを選択するときには、覚悟も必要だし、案外覚悟があるんじゃないか自分は、と想ったのです。

 

ほかで短期の軽作業の或るバイトに二度入りましたが、慣れていないことや、作業内容が楽しめず、ほんとうにつらくて辛くて 笑。

非接客の仕事は初めてでしたが、こんなにもやりがいのない仕事はないと想いました。

(個人の感想です^ - ^)

そうなると、接客という人を相手にする仕事の在り方が浮かび上がってきて 生き生きとした表情の人々の中でああ働きたいと想いました。

 

(通信制高校時代はお土産ショップで平日にアルバイトしていました。笑顔をよく褒めていただきました。)

 

現状つらいつらい仕事とはいえ

お弁当や行き帰りや、或るバイト代で何を揃えようかとか、そんなことをめちゃ楽しみにしています。

 

そして、或るバイトという「気楽中の気楽の真剣勝負仕事」をするというのならば、どうせならやりたい仕事を選びたいものです。

 

或るバイトの話でした。

 

f:id:midorinokokochi:20241007210704j:image

『自分の人生にみんな実体がほしいかもしんないけど、それはなんでもよくて、心血注いだお仕事でも、まいにちのお弁当でもまじでなんでもいいんだよ
それが実体になる』

 

『実体それは、真実とか、天職とか、才能とか、賞賛とか、プライドとか
人によって表現はいろいろなんだろうね
きっと』

みどーりの心地Twitterより引用

 

写真は憧れのお弁当生活3日目でした。

 

 

コントローラーを握りしめていた

コントローラーを手放せていなかった。

コントローラーを握りしめていた。

 

思考が先。現実はあと。

と知って、

想う通りの現実作ってるじゃんってわかってきてからこそ余計に、コントローラーを手放せていなかったことに気がついた。

 

例えば、こんな現実

生身の人間と逢って話したい、自分は全くヘンじゃないって完全にわかってしまう、現実。

意図していた。

 

そして、そのとおりになった。ぼっち感覚が標準だったわたしには信じられないような嬉しいこと。実際に生身の人間と逢えるようになった。

 

人と逢える自分であることはわかった。

しかし、「人と逢って素敵な自分でありたい」理想だとか、「相手にムカついたりしたくない」理想だとか、コントローラーを手放せていないことに気がついた。

 

生身の人間のやり取りだから、

自分だって、そのときどきで、睡眠不足だったり、人の多い中でコンディションが落ちていたり、気を使いすぎてしまったりだとかある。

それで、泣いたり、怒ったり。

全然素敵じゃないかもしんないときがある。

(お子さんとか眠たくてキレて泣いているのとかよく見る。生命維持の基本だからね、大事だ)

 

相手だってもともとの生い立ちが違うから、そもそもの常識が違ったり、長い時間の移動で疲れたり、人と逢うことに慣れていなかったり。

 

いろいろ、あるもんなのかもしんない。

 

コントロールできることじゃないよ。

 

握りしめないでね。

 

意図はできるんだよ。わたしがみたい瞬間を。

 

でも意図してからは、ただ楽しんでいてね。

 

そして、想った通り100%にはいかない、完璧じゃない自分のことを責めないでね。生身の人間なんだ。眠いとかトイレ行きたいとか、足が疲れたとかあるよ。生身の人間なんだ。生身の人間であることを楽しんでほしい。

どんなときも、自分は自分なんだ。

 

そのうえで、今からまた

思考が先。現実はあと。

で、新しく夢をみるといいよ。

 

コントローラーは宇宙に還しておいた。

さあ、心で感じる夢をみよう。

 

写真は、

コントローラーを手放そう ぬいぐるみを握ろう ということです。

 

コントローラーを手放そう ぬいぐるみを握ろう

 

この言葉が流行るといいな。今は9月の末で肌寒いので、ぬいぐるみを握るとあったかいですよ。

食べる 生きる 味わう

想うに、わたしは社会に対する精神的な拒食症だった。

 

不眠症、拒食症。

眠れない、食べられない。生きられない。

さまざまな できない症状がある。

さまざまな生きることを拒否する症状がある。

 

わたしは社会に対する拒食症だった。

 

人生を楽しめなかった。友達とも想いおもいに遊べなかった。先生の目を気にして、はしゃげなかった。

 

生きることを楽しめなかった。すでに小学生低学年くらいから夕ごはんのご飯は小盛りによそっていた。

人生が始まったばかりの段階で、太ることは美しくないことだという見方を理解していた。

 

とうぜん恋も楽しめなかった。コロナ禍の大学時代に相当気になる人がいたけれど、普段隠れていた顔を見たときに全くタイプじゃないと衝撃を受けたり、

友だちすらハグができなかった。ごはんにも誘えなかった。

休み時間には、仲良くするなくっつくなとアナウンスが流れていた。

人生を楽しみたい、人と仲良くしたいという想いへの恐れを加速させた。

 

 

そんなわたしは2024年に入ってから、生身の人間に逢うようになった。最初はランプを作った。そしてごはんを食べて街を歩いた。震えるような寒い日だったけど、震えながら家を出て、震えながら街を歩いた。

 

その日も、次の日までもたっぷり疲れたけれど、なんの問題もなかった。

人生を楽しんで、なんの問題もなかった。

 

恋にも前向きになった。ずっと探してた自分の恋人を探しに会いに行こうと、どきどきとわくわくと出かけた。

 

そして、ちゃんと、その人は用意されていたので、いつのまにか、食べること、生きること、味わうことすべてを含んだデートはあたりまえになった。

 

そのなかで、自分はガリガリで、社会のなかで想いおもいに自分のちからを発揮することを拒否している、精神的な拒食症のようだということに気がついた。

 

本を読んで、いろんなことを深くふかく知ろうと、いろんなことを考えているつもりでも、実際にたくさんの人や場と交わったわけではない。だから、ほんとうのわたしの心は痩せているのかもしれない。

 

「感受性が豊かだ」とか周りの人から言われたことがあるけれど、それは神経質の裏返しなのかもしれない。

 

 

あのね、

 

食べる 生きる 味わう

 

想いおもいに。

 

食べる 生きる 味わう

 

していいんだよ。

 

 

 

それを認めた瞬間、わたしの心はふとふとのふかふかのあったかい いのちそのもののあちあちハートになるんだよ。

 

 

生きることを楽しんでもいいんだよ。

生きていいんだよ。

 

生きることをただ、楽しんだらいいんだよ。

生きることは、ただ楽しいことなんだよ。

 

写真は、珈琲店にて、プリンと、ハーブティー。マテバシー。(ぬいぐるみ🧸)

注文時、紅茶をオーダーしたのですが、お店の方のご好意による提案をねぼけていて全く聴いてなくて、ハーブティーになっていることを口をつけるまで知らなかったのです。

この紅茶なんか、ヘンな味する(^_^;)と想って聴いてみたら、ハーブティーでした。(そもそも色も紅くない)

なーんだ。ハーブティーなら納得の味わいでした。

 

こんなふうに、食べる 生きる 味わう をしたらいいんだと想います。

それが人生だ。

いつまでもこのままだと想うなよ

 

 

「自分にはなんにもない」

がデフォだったガラスの10代。

それで、よく泣いていた。

 

「自分にはなんにもないから」

たまにメソメソするときがある嵐の20代。

それで、たまにSNSに毒をおいていく。

 

でも、想う。

「自分にはなんにもない」って絶望しちゃうせかい観ってなんなんだろう。

それって世の中、社会のせかい観だったのではないかな。

 

誰の役に立てなくても、生きていちゃ悪いかな?

 

まあ誰の役に立ててないひとなんていないけど。

 

そう、今のわたしが欲しいのは

誰かの役に立てている感

わたしはここにいる感なのかもしんない。

 

 

役に立てていないからといって、絶望しちゃうような世の中ってなに?

そもそもの世の中が悪い。

言ったけど。

極端なこと言ったけど。

 

いつまでもメソメソしていると想うなよ。

 

まもなく、わたしは人の役に立ってしまいます。

まもなく、わたしは自分の価値を差し出してしまいます。

 

いつまでもこのままだと想うなよ。

ほんとだよ。

 

まあみてな。

 

写真は、嵐の千葉公園。

目の前のことを一生懸命やる。楽しむ。

 

いつか、は全てのゆめを叶えて

むふふと笑うだけの暮らしをしたいのですが、

今は、やりたいことをやり切る度量もないし、

そうなるとやりたいことってなにって

具体的にはわかりません。

 

周りのみんな(一部)は、マルシェ(フリーマーケットのような楽しい市場)に商品を持って出店したり、お弁当屋さんでアルバイトしたり、ダンスや歌を習って極めたり、

わたしの周りのみんな(一部)の貧相なイメージですが、たいそう楽しそうで、自己が実現できているようでわたしは焦ってしまいます。

 

わたしは何をしたいのか、わたしは何ができるのか。

 

んなの若すぎてわからないので、

めちゃ楽しく自己実現、自己表現をしている自分をイメージした上で、一旦忘れて、目の前のことを一生懸命やるです。

 

とある一人の例で言いますと、

少し前まではお弁当屋さんでアルバイトしながら、Twitterでみなさんと交流をしていた方。

ぬいぐるみを作ったり、ぬいぐるみの小物や、その子たちのオリジナルアイテムを持って、趣味のマーケットに出たり、オリジナルショップで販売されていました。今は、本業になったみたいです。

何よりもご本人が楽しんでいるから、作品のせかいが広がるし、みんなそこに楽しく加わりたいという気持ちになるのだと想います。

 

楽しいのがいちばん。

わたしも目の前のことを一生懸命楽しみますね。

 

好きなこととか、得意なこととか、やりたいこととか、考えちゃうことを一旦は、置いといて。

 

大事なことって、めちゃくちゃシンプルだ。

1秒足らずでできてしまうこと。

それは目の前のことを一生懸命やって、楽しむこと。

 

「『もっとふざける』は基本中の基本だょ♡」

#1日1みーこちゃん より

絵:みどーりの心地